僕についてのただの事実なので、サンプル数1。要するに役に立たないデータだ。
僕は、少し発達障害が入っているのかもしれない。
自分がなんでこんなに忘れっぽいのか、間違えることが多いのかをよくよく考えることがある。
大抵はうつの薬のせいにしてしまっているが、
でも子供の頃からずっと・・・ということについて説明できない。
いくつかある。
そのうちの一つ、音楽は好きだったけれども、音楽の教科書を自分のもので授業を受けたことがほぼない。
冗談だろう?と思われるかもしれないけれど、事実だ。
(音楽は2学年ごと?だったかな?)学年の始まりに配られた教科書をいつも無くしてしまっていた。
そのため授業のないクラスの子に毎回借りていた。
借りれない時は大抵音楽の先生に怒られていた。
音楽でのみ悪目立ちのする子供だった。
ちなみに他の授業では、かなりいい成績を取っていた。
ただ音楽でもギターの授業が5年か6年のときに2時間ぐらいだけ行われた内容は、今でも覚えている。弾ける。
傘、筆記用具の忘却力。
大人になってから多いのは、傘を忘れてしまう確率。ひどい時は毎月傘を失くしてしまうぐらいの本数を紛失する。
事務の仕事を社会人になってから数年していたが、ボールペンなどの筆記具を傘とは比べられないくらいの確率で、紛失していた。
最も、逆の人間がいて、彼の引き出しを見ると、僕の失くしたボールペンが入っているので、そこで回収することができた。
僕が紛失し、彼がどこかで回収して、僕のところに戻ってくる、という妙なサークルが出来上がっていた。
その会社では、かなり優秀な仕事をしていて、フォローに回ることが多かった。
まぁ総務兼経理兼システム担当、というところで、PDCAサイクルを意識して回していたし、小うるさい上司がいたせいかもしれない。
ちなみに学業をきちんと?こなしていた時期の成績は、ほぼずっと次席だった。
偏差値で言えば、60台後半、一番高い数値で74というものをあるかもくで取ったことがある。
なお、今現在会社には書類選考で落とされ、運よく入れたとしても、うつ病のせいかかなりおかしなことをやらかしてしまい、結局やめる羽目になる。何やら発想がおかしいらしい。具体的にどう?と教えられたことはない。
運よく入ったシステム会社では、入社時のテストの結果が、何やら某トップクラスの大学生と同じだったらしく、それで中途採用ということになったらしい、それまでの会社はほぼ書類選考で落とされていた。
ただシステムの仕事では今まで携わった知識はほぼ意味がなく、毎回毎回プロジェクトごとに新しい知識を無理やり詰め込むことが多かった。要するにプロジェクトに参入するにあたって、新人としては歳をとりすぎているので、経験者として参入するため、その経験をプロジェクト前に勉強(学習よりもこちらがとても合っている)しなければならなかった。要するに経歴の詐称だ。かなり精神的にキツく、そしてそれは当たり前だがボロになる。とは言え、いくつかのプロジェクトを成功させてしまい、いくつかのプロジェクトは破綻した。
歳を取るにつれて、確率は高くなったので、普通のことだと思われる。
鬱になった。
確かに給与は総務と違い、良かったかもしれないが、とてつもないリスクをおった。
鬱というのは自分自身もとてつもないリスクを背負い込むが、社会的にもすごく悪い立場になる。
当たり前だが、鬱を公表して働こうとすると、精神障害の職場に応募するわけだが、給与は、障害者向けの設定になり、恒常の人間のよくて2/3、大抵1/2になる。
所帯をもち、子供のいる人間が世帯を維持できる給与ではない。
ここで救ってくれる人があれば良かったかもしれないが、普通の人は、基本的に無関心である。説明しても理解できないし、説明するのが難しかった。遠ざける、それがゆいいつの選択肢のように見えて誰とも話さなくなっていく。
よって鬱を隠して、仕事を探すことになるが、正社員レベルの転職はまず成功しなかった。正直な人間と捕らえられたので、面接まで行くと大抵内定をもらえたが、結局うつが露呈したりすると、やめる羽目になった。
その頃非正規雇用の法律がまとまった。
個人事業主である程度高額な報酬のもらえる仕事に転職することにした。
このあたりで借金がかなり増えた。職につけていない状態が続いたし、家内が僕よりもひどい精神病だったため、普通の金額では生活できないことを僕はようやく理解した。
建設業、道具を盗まれた上に体を壊して、借金が増えた。
水道業、稼げそうな感じだったが、よく考えると詐欺じゃないのか?ということで早々に足を洗った。(後日、社長は捕まったらしい。クラシアン系形態の水道業者・・・現行のほとんどの水道業者はほとんどグレーな仕事をしているので、トイレが壊れたとか、水道のトラブルは、ネット検索ではあまり解決しようとしないことが望ましいように思えてしまう。役所指定という名目すら怪しい。)
ドライバー業、引越しはとても体力の関係で無理だとわかっていたので、緊急便とかチャーター便という仕事を選択した。結構ドジだったと思うけれど、運転については、好きな部類だったし、融通が聞いたので、なかなかいい仕事ができた。
ただし、たくさん稼ぐ、という程度に働くには、月300時間から500時間を稼働しなければならなかった。
そして、気に入る仕事はなくなっていった。理由はわからないが、この仕事はいいな、と思う仕事は、コスト削減などでなくなる対象になるもので、要するに仕事自体が減ってしまい、生活が成り立たなくなるレベルにまで仕事量が減った時点で、別の仕事を探すことになってしまった。
同じドライバー業でも緊急便ではなくチャーター便の仕事を受けることにした。
定額で仕事量も安定、決して高くはないがなんとか生きていけるレベルの報酬だった。
コロナがやってきた。
安定していたはずのチャーター便の仕事が半分になった。
生活のできないレベルだった。
逆に業績を伸ばしていた宅配を受けることにした。
車が故障した。お金が溜まるようなレベルでは働けていなかったので、修理代を捻出できるはずもなく、事業を諦める、としたところ、1ヶ月半ほど仕事した報酬が契約違反でカットされた。
少し時代を遡る。ドライバーになる前。
僕は役所があまり好きではなかった。というのも親があまりいい目を見ていなかったため、あるいはやってることがおかしいと思っていたため。特に福祉関係、日本は福祉の充実した国で、他国なんかより、余程いいとよく言われる。
それは間違いだと思う。
僕の親はいろんな人から何かしら頼まれることが多かった。育ての親がボケて、色々役所の人間に助けられた経緯もあると思う、民生員という役をしていた。月に3000円、という給与で、老人の世話をする。僕はその金額を聞いた時点で、頭が痛くなったが、まぁボランティアの類だろうという感じでいた。
ボランティアは普通の人にやらせるものではない。正直、この時代そんなものをやる余裕なんて日本にはないと僕は思っている。
まぁ僕個人の考えなので、親がどうして受けざるをえなかったかは問い詰めなかったし、そもそも結婚して、妻が精神を病んでからは親戚付き合いを疎遠にしていた、せざるをえなかった。
父親は、面倒を見ていた老人の誰よりも早くなくなった。
全く別の役所の人間だと思うけれど、ニュースで「正義」というTシャツをきた役所が話題に上がった。役所の人間を信じてはいけない、と思うようになった。
さらに前の話だけれども、鬱になった時、失業保険をもらえなかった。(もらわなかった。)というより、鬱になったときに、家を出れる人間がいるのだろうか?
家の外に出れるようになるまでに失業保険のもらえる期限は過ぎてしまっていた。
自分が何を言っているのか時々わからなくなるようになった。
社会福祉関係の人と何を話したかをよく覚えていない。
精神科の先生に鬱ではないと言われた後、ではなんなのか、聞いたのか聞いてないのかすら覚えていない。
先生のいうことに嘘が混じっているようにとらえられるようになり、誰にどう相談をすればいいのかわからなくなった。
睡眠薬の量が増えていった。
そして、あるとき一線を超えた。
一線を超えた後、キッパリと薬をやめた。
これだけがいいことだったかもしれない。とりあえずうつの表情を緩和できたので、病院に行くのをやめて、職を変えることにした。
システムエンジニアをやめた。
とはいえ、失敗が止まったわけではなかった。
借金は僕には山のように思えたし、事実として減っては行かなかった。
減っているのは、カード関係の借金で、結局身内からの借金は増えていた。
親からは詐欺師と言われた。
ドライバーの仕事は、なかなか気に入ってはいたし、ある程度稼いでもいたが、それでも借金を減らすことはできなかった。
月に500時間働いたときだけ、少し利益が出たものの、タイヤやオイルなどのメンテナンス費用、周りのドライバーはオイル交換をしとけば大丈夫、と言っていたけれど。
僕の運はそんないいものではなかった。
エンジンのガスケット交換、イグニッションコイルの交換、ミラー破損、ドライブシャフトオイル漏れ。。。
見積もりをもらうものの、直せなくて騙し騙し乗るようになり、生活費を維持できなくなり、事業を諦めた。
さて趣味のお絵かきだけれども、なぜ社会人になるときにその道へ行かなかったか、僕は真面目?なので親の言うことをなるべく聞いてきた。
そして絵は金にならない、と言うことを聞かされてきた。高校を卒業するときに絵の関係に紹介するよ、と言う話をもらったのだけれども、親の言葉に従いその道へは進まなかった。親のせいにする?のは簡単だけれども、僕の親はそんなに悪い親ではなく、実際、普通の考え方で行くなら、やはり絵は金にならないと言うのが正解だと思う。
でも絵は好きだったので、とても細い線ではあるけれど、描くことはやめなかった。
とりあえずコロナで仕事がなくなったときに、もう一度絵に力を入れた。
僕より絵の上手い画家は5万といるようだったけれど、実際いっぱいいる。
絵を描くのは楽しかった。
現実を忘れられた。
それが夏から描いているほとんどの絵。
なんと言うか他人から見ればどうしようもないものかもしれないけれど、僕の中では、
なんと言うか充実した何かをえられている。
少し覚醒したような感覚をえられている。
多分画風も変わっていると思う。
僕の親は理解してくれない。
僕の妻さえ趣向はどうも違うようだ。
でも僕はこの世界でしか生きられないような確信がある。
まぁ諦めざるをえないかもしれないけれど。
転落への過程を書いているわけだけれども、なんと言うかこのどうしようもない貧困の中で発生したコロナ暇によって絵をかけるようになったような、実際に不謹慎な状態ではあるのだけれども、現実に起きている、行っている事象なので、ただ事実を書いている。
そしてやはり絵は売れていない。
当たり前のこととして受け入れている。イベントや展示会にいけていないし、回ることもできていない。
絵というものは無駄なものだ。いや貴重なものだと思うけれど、普通の生活を見た場合に、食べられるものではないし、住める場所でもない。絵というのはそういう必需品ではない。
でも僕はこの貧困にあっても、人間は文化的に生きるべきだと思うのでやめない。
何より描きたいものが、まだまだあるので、止められない。
生きるためのあらゆる手続きを上回ってしまっている。
多分僕は破綻するだろう。
家族のことさえ考えていない行為だ。
恩義を仇で返している最低な人間だ。
それでも、誰かに助けてもらいたいと思っている卑怯な人間でもある。
そしてやはりいろいろなもののやり方を間違っている。
でも人間というのは全て善悪で割り切れない何かを抱えて間違っているのではないだろうか。