前の記事では、前提として人間が協力的な社会を築いているというものがほとんど絶対条件というようになっていると思ったり。
一人の人間が自然の中で生き残っていくのに、要は完全自給を実現するわけだけれど。
2人の人間でも自然に中で生き残っていくのに、2人で完全自給する。
人間が失敗するものとして、余剰を考えて食料が備蓄できるように生産し、豊かな自給生活になっていく。
しかして、別の人間のなかに他人から奪えば楽じゃね?という獣的な考えを正当化するものが現れる、戦争が発生して、豊かさが失われる。
戦争は単純な思考で行くと、やはり損失だ。
また、一度戦争がはじまると、仕掛けられた方が恨み、復讐する。許さない限り。
平和の敵としなければならない。
当然の理屈だ。
人間の感情はそんな簡単なものじゃない、という理屈。
さて効率化がなされると、なのか、時間が早くなれば?なのか分からないけれど、コスパ、いまではタイパなんて言葉も出てきた。そしてパフォーマンスの悪さが、悪であるという思いが生まれる、豊かになったはずのひずみにたいする比較の悪だ。
あるいは、知識を持たない者に対する侮蔑、差別。
よく「礼儀を知れ!」というものは、躾に使われている一方で、ほぼ完全な差別である。というかパワハラのほうが正解か?
知識という豊かさの陰で見落としがちだが、知らないものに対する差別として発せられる感情はやはり正義ではなくて、悪徳だと思う。
実際に行うのはとても難しい。
僕には正義と悪という分別が、本当に正義と悪なのか、見極められないことがある。
なんでか。
たとえば、上司や部下という関係の中で、実際には、後輩が嫌いなので、あるいはむかつく野郎だったので、仕事量を増やす、という行為が、相手のことをおもいやって仕事を増やした。という行為にすり替えられることが簡単にできるから。後輩からすれば、丸投げじゃん、という話であったり、上司からすれば、できる能力があるから、という理屈がなりたつし、実際に行われる。そして、人の評価というものは、実際のスキルではなく、そういう差別によって行われることが、人間の社会では当然のように繰り返される。豊になればなるほど、あるいは貧困に関係なく、知識を得た人間が。
人間の主たる能力、学ぶというのは、教えられたことを実行するものは、要するにものをまねる、ということだけれども、まねるということは、誤差を生む。
正確に伝わらない可能性が常に付きまとう。
逆にまねることを問題視することだってあることであるし、別問題というふうに言ってしまうこともできるけれども。。。
最近は、「とある正義」というものが、結局、「誰かの都合」ということで説明ができてしまうのではないかという思いに支配されてしまうことがある。
そしていろんなものに冷める。
全く話が変わるように思えるかもしれないけれど、「あおる」という行為は、そういう誤解の結果の行為なんじゃないか?とか、
車にのっていて、
前の車が遅いので、あおる。
ムリな割込みだと感じたので、あおる。
いきなり前を通り過ぎて、びっくりしたので、あおる。
いきなりとまったので、あおる。
いろんなあおりがあるけれど、やってることは脅迫。
俺に対して、むかつくことをしてんじゃねー、みたいな脅迫。
自分に対して、悪を行ったのだから、自分に正義がある、相手は罰しなければならない。
危険な感情ですね。「あおり」というのは、復讐なんですよね。
実際には、前の車は、さらに前の車が速度を落としたので、あるいは信号が単純に赤になったから、速度を落としたのかもしれないし、そもそも車線の合流で、後ろの車が前との車間距離を取っていないのかもしれない、
道が狭く、前に出ないと確認ができないような交差点で、少しずつ前に出てたのを、驚いた側が見落としていたのかもしれない、
などなど。別に前の車に、あなたへの害意があるわけではないことがほとんどだとも思うけれども、まれに後ろに害意をもつという器用な奴もいたり。
ものまね、というか、似た感情の比較というか、タイパを意識するあまり、遅いことに腹をたてる。
車に乗るという豊かな行為が、あらたな傲慢を招く、そんないやな理論を導き出さないでほしい。
そうならないために、ルールがある。
しかしてルールにも〇〇。
〇〇に続く、文章を考えなさい。
どうしてこんな終わり方?